ニュージランドの旅

   白いシーツのように美しいだけのニュージランド

   ニュージランドはわたしが来るところでなかった。たまたま、テロの風圧でよろよろ逃げ込んだ国だ。人間なんて旅をするにも、無意識で自分のストーリーを持っていて、かしこく旅の順番を決めているものだ。

   六年前に初めてニュージランドに行ったとき、幼なじみが"あんななんにも無い国へ何故行くの?"といったことを思い出す。再び行ってみて、言い当てていると思う。

   本当に、ニュージランドは白いシーツのように美しいだけの国なのだ。

   それに比べたら、ラテンアメリカは汗じみ、しみだらけで、虫が食い荒らしたシーツのようだった。5千年にわたる人類の創造と破壊で大きなしみを、汗と涙で黄色い薄い小さなしみを幾重にもつけていた。がれきの中から、そこにあった古都の、賑わいと、最後の日をイメージとしていつか再現させている。そして人類の偉大さ悲しさをみている。旅はがれきの中の、宝探しのようなものなのに、遺跡がないのでは旅になり難い。

   本当に、ニュージランドは白いシーツのように美しいだけの国なのだ。

   ニュージランドの西側は、パタゴニヤやコスタリカとそっくりな雨林が広がって懐かしかった。しかし、その豊かな森に旅行者は関心を示さなかった。パタゴニヤのように、木に苔がおおっていても、雨林を食い尽す壮絶風景には至らないし、厳しい冬から開放された喜びをあらわして、森の片隅に盆栽のような赤い花は咲いていなかった。
   
   コスタリカの熱帯雨林のような森なのに、静けさの中に、生き物のうごめきが予感できなかった。猿が犬のように激しく存在感を示さなかった。姿をあらわさない鳥達が、全身から血の出るように放つ鳴き声も、フルートのような柔らかな響きも立てなかった。足元に、仕事に忙しい葉蟻の行列や、どきりとするイグアナが訪ねて来なかった。

   本当に、ニュージランドは白いシーツのように美しいだけの国なのだ。

   ミルフォードサウンドの氷河に削られ、水面から千七百メートルも立ち上がる黒い岩山の景観は、パタゴニヤの風景に似ていた。しかし、薄墨色の岩の間をクルーズ船とともに、こころは地の果てに向わなかった。パタゴニヤよりは緯度が低いらしく、岩山は薄く緑が差して平和な感じで、小さく見えるクルーズ船が何隻も滝に群がっている様子は、楽しく遊んでいるような、おもちゃの世界のようだった。

パタゴニアに似ていたが
少し緑色がかかっていた

   その他、鯨見物、ペンギン、氷河などニュージランドの主要な見所はパタゴニヤで見たものを、規模を小さくしたものだった。わたしには二番煎じと感じたわけだ。だからニュージランドに感動しなかったのは個人的なものでもある。

   本当に、ニュージランドは白いシーツのように美しいだけの国なのだ。

   ニュージランドでとてもよいと思ったのは、青い湖、空気、緑の牧場、英国風の庭園に乱れ咲く花々。どこにもないと思ったのは、白昼の燃え立つ光が、浅緑の木々に陰影を与え、湖をますます青くすること。「なんて美しい国だ」と、旅行者が言うのを何度も耳にした。

   しかし、白昼の美しさは本当に人間の心に深くしみるだろうか。わたしの心は反応しなかった。じっと湖のほとりに座る時間を何時間持っただろう。見たこともない明るい青の湖に、燃え立つ浅緑の強い光による陰影だった。しかし、その時間には時間を経つのを待つたばかりの記憶しかない。

真昼には水浴ができる

   白昼光の中では美しいものは、しょせん、退屈なものではないか。一日のいとなみが終わるころ、たそがれに光がうすくなり万物が消え始めほのかに山影が浮かび上がるころ。斜陽の中にこそ人間はこころを開放して、まわりの景色をこころに滲ませるのではないだろうか。

   本当に、ニュージランドは白いシーツのように美しいだけの国なのだ。

   それではニュージランドに何が欠けているか。もう言ってしまっているが、この地に遺跡・動物・昆虫・人間が少ないことだ。広大な原野や海原の隅に、瓦礫になったような遺跡や、足元に忍び寄る虫や動物がいないと、わたしの旅は心にしみてこない。