パタゴニアの旅

 ウシュアイアハイキング
平成十二年十一月二十七日

火の国国立公園


存在感すら希薄な、静かな海。
ビーグル水道を目の前にして、ミニバスは止まった。
歩きはじめると、ビーグル水道は波もなく長い波紋を描いていた。




静けさの世界 暗い空の下、
海はざわつかず、ただ、長い波紋を描くばかり。
目の前に白い筋を版画の様に描いた黒いパタゴニヤの山があった。
いくつかの小島が薄墨の丸い弧を海に描いていた。


見渡しても鳥の姿も見えない、
無生物に見える世界だった。
歩く足元に時に白い花が揺れる、
白い花がそんな静けさににあった。







いつか日本の松島を思い出しても見たが、
その松の緑と海の青い明るさはなかった。
この風景に浸りきって歩くうちに、
私は京都の竜安寺の石庭と同じだと思っていた。

そっくりではないか、
海に見える波紋、歩くうちにいくつか現れる島の影は、
あの庭に写し取ったものでないか。
不思議だあの竜安寺を創作した庭師は、
彼の頭にある永遠の風景をそこに描いただけなのに、
それに類似している。これはどういう訳だ。

私は思った。自然と共に生き、自然を感受した、
人の六十万年の長い年月の中で、
頭脳の中にこの風景が何時しか焼き付けられたのだ。
人間の創作とか感動とかは、
長い人の歴史の中で刻まれたものを再生させているのだ。


もともと、私が旅を始めたのは、自分は自分だけでない筈だと思った事もある。
というのは、自分の生は、人類が時間をかけて育んできた感性を持つものだから、
育んできた自然と育まれた自分の感性を対峙させ、
自分の感性を喜ばしてやりたい/人類の持つ感性を確かめたい事にあった。
だから竜安寺の庭への思いは確認されるようで嬉しかった。



無生物の世界と思う静けさの中で、鳥の飛び立つ音が聞こえた。
カイケンのつがいが飛び立ったのである。
その後、歩いていく先にまるで待っているように、
幾度もこのつがいの鳥がシルエットとして浮かんだ。






森の中

やがて、歩く道は森の中に入っていった。
足元はぬかるみで、時に水溜りがあり、
木々が黒茶色をして倒れ漬かっていた。
その周りに水生植物が隙間なく重い緑色で埋め尽くしていた。
森の中に聳える木々の根元から背丈まで、コケが異常に生えていた。
薄い白い緑の糸くずのような寄生植物が、
力のありそうな木のはるか上のほうにまでまといついていた。






低い細い木には、同じ白い緑の糸くずのような寄生植物が
衣のように獲りつき食い尽くしてしまったように見えた。



高いところには玉状に幾つもの寄生植物が黄色く輝いている。




この森では木と寄生植物の相克の中、
寄生植物が林の木々を優勢に食い荒らしているように見える。
この地は晴れることがなくいつも雨で
それがこんな風に寄生植物に異常な植生を与えていると思う。



暗く感じる森の中、遠くから蛍光のように
光って見える丸い橙色の幾つものピンポン球。
これも寄生植物だ。
十センチほどの幹を太らせてその周りに十個前後の
二センチほどの橙色のピンポン球。手に取るとスポンジ球で、
しかも地面にぶつけると跳ねる。








箱庭の花たち
  少し、森の木が少なくなって開けたところに、
幾つもの種類の背の低い水生植物がお互いに
背を付け合ってぎっしり泥の中に生えていた。
それぞれが花をつけてこの森に訪れた夏を歌っていた。
コケが玉を作り赤い実をつける。小さな橙の花がいくつもの・・・・。





背が低い植物は何か魔法を使うことを
神はいつか教えていたのに違いない。
背が低い分だけその頭に美しい花をつける力を宿している。
それらが小さな箱庭の中に幾つもの花が咲き、
これらの個性豊かな偶然のバリエーションの箱庭は
無数に森の中で景観を誇っていた。








やがて水溜りがあり黒茶色にすべてが見え
木々がその中に漬かってしまった景観が現れる
しばしその水は流れている。






絶望風景

   更に行くといきなり林の中が水が入ってきて、
林を飲み込んだ景観。
数千の木が助けを求め形で終わり、
集団で死に追い込まれたような風景が果てしなく広がる風景
絶望とこの世の終わりを象徴している風景。