パタゴニアの旅

 ウシュアイアハイキング
平成十二年十一月二十八日

マカイヤ氷河

歩き始めて一時間半ほどたった頃、
白い輝きに黒い筋をつけた屏風のような山に立ち塞がれ、
行く当てを失い当惑していた。



登山道の入り口まではウシュアイアの町からタクシーで十分。
ウシュアイアの町の裏山というべき山を上って来た。
上り始めて間もなく昨夜降った雪を踏みしめていた。
道が付くべくもない大湿原の中を道を求めて彷徨い上がってきた。
湿原の中,山靴が水の中に潜らぬように首を出している小さな岩と苔の玉の上を渡ってきた。
徐々に小さくなっていくウシュアイアの海の広がりを振り向きながら歩いてきた。
足元の湿原の花を見つけて未だ見ぬものはないかと歩いてきた。
歩く傍に大きく広がる雪渓の上のカイケンの写真を撮ろうと試み歩いてきた。



観光案内所でもらったパンフレットは、Y字で表現された地図しか描かれておらず、
どうやら今は二つの目的地の分岐点らしいとしか分からなかった。
目の前は白い屏風で阻まれていたから、少し左の屏風の雪渓を登って行くか、
右のなだらかな窪みに見える山の端を目指すしかなく、
目的地は山の上でそこから向こう側に
氷河が上から見渡せるのだろうと考えていた
道はないのは明らかで方向をどう取るのか
地形を見ながら模索していた。


突然に右側の広い雪の平原とも言うべき雪渓に一つの点が現れ徐々に近づいてきた。
次に点は大きくなり斜めの雪野原をどんどん飛ぶように降りてきていた。
大分近づいたところで 大きな声で「 どちらだー 」と問うてみた。
何か言っているが、 「分からないー」と、 私が繰り返すうちに、
雪野原を私のほうに飛んできた。

あちらに行ってきたと右側の山の窪みを指差した。



「良かったかい?」と聞くと
「もーん」と口の中で言いながら
、片方の五本の指を一つにまとめて口元に持ってきて
チュッとキスをした。
仕草が優雅だったからフランス人だと思った。
興奮した顔に口に言い表せないという見せた。
さらに「眺めは最高だった。とても気に入った」といった。

「一時間ぐらいかい」 「いや一時間半だ」といった。

私は若者がつけた雪渓の上の足跡の上を歩いた。
次第に急峻な雪の道に変わっていった。
四十分ほど歩くと、雪渓は終わり、

氷河の削った五十センチほどの黒茶色の岩片が急な斜面をなしていた。
更に急峻になっていったが足元は崩れる心配はなく安定していた。
すぐそこに山の窪みが見えるように思ったから一気に上っていったが
一向に近づかない。風も強くなっていった。

こんなに急峻な山道は帰りは怖くて腹ばいで降りて来るかも知れないと思った。
こんな登りのピッチは室堂から立山に上った以来だと思った。
心臓の鼓動は高まるが一向に山の窪みは近づかなかった。
途中で休めば努力は倍になると思い登り続けた。
風は強くなるばかりだった。

風の抵抗を受ければ受けるほど、急斜面になればなるほど、
後ろを見ないで帰りの事は考えないでと一気に登り続けた。
ただ、そこにまだ見ぬマルカイヤ氷河の展望があることを祈った。
あの窪みに到達すると次にまた道があり、石ころのだらけで
風の通る道が続いていないことを願った。


心臓の鼓動が最高に達したとき、
風も更に強く吹き付け、
山の窪みの上に達した。
足元は雪の棚が出来て、
思いもかけない眺望の山と谷に
向かっていた。

谷は足元にあって直ちに見渡す事は出来なかったが、
そこから立ち上がる垂直に立ち上がる岩山は
右から左まで幾つもの山々が黒く白い筋を立てていた。


岩山の麓は緑で更に谷に繋がっていた。

しっかりした足場を求め更に左に登った後で谷を覗き込んだ。
深い底に泥でまぎれたような雪の姿が長く伸びていたが氷河であるとは思えなかった。




後ろを振り返ると登ってきた谷が、山の間に和服の襟をあわせたようにあり、
ウシュアイアの海が青く姿を見せていた。


どちらを見てもの絶景を全身でみた。
心臓の鼓動と風の響きの音が体の中を通り抜け響いた。

ここまでの急峻な道も、
それを登れた事も、
それによる心臓の鼓動も、
この怖いような高さも、
パタゴニヤの風の響きと体にかかる圧力も、
幾つもの山々の姿も、
千尋の恐々見る谷底も、
背中に流れている汗も、
風に吹かれ岩にしがみついている自分の姿も、
生きている感激だった。


帰りの雪の上に付いたフランスの若者の足跡は飛ぶようだった。
同じく私も雪渓の上を飛ぶように走っていた。
帰り道の間中、私は走り続け、
心は歌って止まなかった。