Toru Sasaki`s Gallery



ゆたか(仮名)との出会い

わたしは、ユニオン公園に張り出したレストランで、
甘くて快いライムジュースを飲みながら、パソコンを打っていた。

オー、日本人か知らなかった"と、
公園側の近くのベンチに腰掛けた日本人が後ろを向き、声を掛けてきた。
レストランの私の座った席が公園と接していた。
そのため、わたしの隣とも言うべき場所のベンチに、彼は腰を下ろしていたのだった。

"一緒になにか飲みませんか"と誘った。  
赤い帽子を被って、赤色の若者の着るチョッキを着て、白いズボンのいでたち。
典型的な日本人の優しい目許、跳ね上がった黒い眉毛、落ち着いた物腰であった。

  「ここで何をなさっていますか?」これを機に、このユニオン公園で
私は何日かの間、一日に何時間も彼の物語を聞いて過ごしたのだ。

 「大学で禅を教えています。今は宗玄と言う名前です。
以前はここで空手を教えていました。
このグアナハトには六千人の空手の弟子がいました。
ゆたかと呼ばれてとても有名でした。

しかし、そのときはいろいろごたごたしたことがありました。
女性問題がこじれてピストルで玉が頭を貫通しました。奇跡的に命は取り留めたのです。
日本にはそのときこのゆたかは死んだと伝わりました。日本に墓も出来てしまいました。
この事件でこの地も自分も嫌になり、六年間いたグアナハトを去りました。

アメリカに移り、イギリス人に付いて禅の道に入りました。ロサンゼルスの禅センターにいました。
日本の永平寺に修行に出かけ坊主になりました。
日本の禅はルールが多くてわたしには合わなかったですねー。」と笑う。
「そして、十七年間アメリカにいて、またここに戻ってきたのです。」

 「日本はいつ出てきたのですか?」  「大学を出てすぐ出て来ました。日本大学の芸術学部です。」 ・・・・・・。


彼の話をまとめると次のようになる。某大学芸術学部卒。
大学時代に空手部に所属した。1967年にメキシコに来てグアナフアトで絵の修行をはじめる。
同時に空手の道場を開く。空手は当時人気を集めており道場は盛況を極める。
空手の弟子はグアナハトだけでも総計六千人を数えるほど成功する。
これで彼はグアナハトでは"ゆたか"と言えば知らぬものがない著名人になる。
絵の方も徐々に自信を強めていく。

どうせならアメリカで売り出そうと考え、アメリカに渡る。
その当時は金も在ったので、アメリカの主要都市で個展を開いて回る。
パーテーに金が嵩む一方、絵は売れない。これで無一文になる。
再び、グアナハトに戻るが、

ごたごたが続き、1973年に女性問題で撃たれ、玉が頭蓋骨を貫通する。
幸い一命は取りとめたが、日本にはゆたかがこのとき死んだとなり、墓も出来る。
何もかもいやになり六年間いたグアナハトから去った。

米国のロサンゼルスに移り、イギリス人に禅を師事。
さらに、”永平寺で修行して出家。ロサンゼルス禅センターに所属する。
このとき、米国のラジオ局から頼まれて禅の話をしに行ったら、
ダライラマの次に放送されて慌てた”と笑って言った。

そして、こうして今、十七年ぶりにグナフアトに戻り、グアナハト大学で禅を教えている。
彼は市の有名人であり、町を歩けば道の両側から頻繁に挨拶が掛かる。
グアナハト市の様々な人々と懇意である。
こうして故郷となったグアナハトで、今は毎日を暮らしている。

ただ、彼は未婚だという。
このメキシコでは聖職であるものは独身を社会的に要求され、
結婚は聖職を辞める時という、厳しいルールがあると説明した。

彼の大学での仕事は忙しいわけでない。
時間があれば、ユニオン公園のベンチに座り、
日本人の旅行者が来れば話し込む毎日だ。
グアナハトのユニオン公園で、赤いチョッキを着て、
ニコニコと話し掛けて来る人が居れば、彼、ゆたかだ。


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